モルガルデンの戦い(史実)

動画作成のため英語文献を漁ってみたのですが「狼の口」とは随分違う模様。

元々スイス自体が山岳地帯で平地に乏しく、細々と畑作と牧畜をしているゲルマン系やケルト系の農民達が協同組合的なゆるーい連合を組んで生活しており、その隙間に修道院の直轄地やら零細貴族やらがぽつぽついるような土地だった。

ハプスブルク家もローマ帝国崩壊後の世界で発生したスイスの片田舎の零細貴族の一つに過ぎなかった。

が、時代は進み1200年頃にザンクト・ゴットハルト峠の街道が(通行権などの利権と引き換えに)地元民の手によって開通。山間の僻地であったスイスが一気にドイツ-フランス-イタリアを結ぶ交通の要衝に化ける。

この影響でスイス北部の零細貴族の一つに過ぎなかったハプスブルク家はザンクト・ゴットハルト峠の開通による流通の発展で急増した通行税で大儲けし、大貴族へと躍進する。

そんなこんなで急速に商業と流通の拠点として発展していたスイスのウーリー邦は、元々ホーエンシュタウフェン朝フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)の直轄地だった。

神聖ローマ帝国はカトリック圏の中世ヨーロッパ王国のゆるーい連合体で、選帝侯と呼ばれる選挙権を持った王の選挙によって選出された「ローマ王」がローマに出向き教皇によって戴冠されることによって「神聖ローマ皇帝」になる(ただしローマ教皇と対立しているドイツ王は地元で勝手に戴冠することもあった)という春秋戦国時代の「覇者」に近い象徴的な権威であった。

春秋戦国時代よろしく選帝侯同士がドンパチやるのも当たり前で、王家同士の権力闘争のシンボル的な存在であった点も覇者と類似している。ただし、覇者と違う点としては「強い王が選出されるとは限らない」という点がある。ここは権力が「王権」と「宗教」の多重構造であったヨーロッパならではの事情がある。

これは日本での「幕府」と「朝廷」になぞらえると解りやすいと思う。

で、皇帝になるには「選挙に勝ってローマ王になる」「ローマ王がローマに出向くorローマを支配下に置く」「ローマ(対立している場合は地元のカトリック教会)で教皇が戴冠してくれる」の3条件が必要なわけであり、2番目の要件を満たすには、ローマへの最短路であるザンクト・ゴットハルト峠の通行権は実質的な必要条件であった訳だ。

1211年にドイツ王に戴冠されたフリードリヒ2世は、イタリアや教皇勢力とドンパチをやっていたため戦費を調達する必要があった。そのためウーリーの自治権を質草にハプスブルク家から金を借りてしまった。

勝手にハプスブルク家にドナドナされたウーリーの住民は、交易で稼いだ資金で自力で自邦を買い戻し、教皇から離反し、皇帝を支持する代わりに強力な自治権のお墨付き(帝国自由都市の特許状:以下お墨付きと略)をGETする。ついでに隣のシュヴァイツ邦もどさくさに紛れて住民が皇帝支持を表明し、ちゃっかりお墨付きをGET。

シュヴァイツは一応ハプスブルク家の分家である教皇派のラウフェンブルク家の所領であったが、皇帝のお墨付きがついた事で、王手飛車取りでお墨付きを獲得して独立してしまった訳だ。

時代は下りハプスブルク家のルドルフ1世が神聖ローマ帝国皇帝に就任、婚姻を通じてラウフェンブルク家の所領をもルドルフ1世相続したため(ドサクサに紛れて独立された)シュヴァイツの領有権を主張するも、特にシュヴァイツを制圧するわけでもなく放置プレイの状態が続いた。

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