「アンゴルモア 元寇合戦記」を読んで元寇の役の実態を調べた結果

↑これを読んで興味が湧いたのと、そういえば近年博多湾の海底調査で色々当時の武器や資材が揚がって研究が非常に進んだという話もあったな~と思い、調べてみました。

gk3

【間違いだらけの元寇の役講座】

・高麗はモンゴルに30年に渡り、根強く抵抗し最終的に講和した
→モンゴル軍相手に敗走を重ねて首都開城に迫ってきたので、王族が国民を見捨ててソウル沖にある江華島に城塞を築いて籠城、その間モンゴルに本土は滅茶苦茶にされるも知らんぷり、和平交渉に応じるふりをして裏切るを繰り返して更にモンゴルをガチ切れさせ、本土は完全に灰燼に帰す。なお、降伏後はモンゴルべったりになり「宗主国様!隣のチョッパリをやっつけましょう!あいつ生意気だし金持っていますよ!」と執拗にけしかけたのは高麗の忠烈王。

忠烈王

何か鳩山由紀夫夫妻を連想させる連中です。

abeb247627539803e392a49f13bd9b04

・元の使者を問答無用で斬り捨てた鎌倉幕府は国際感覚が欠如していた
→文永の役前に来日していた使者は使者と言いつつ、日本の戦力を調査するためのスパイをやらかしていたため(なお、こいつは殺していない)。文永の役後に来日した使者を生きて帰す訳にはいかなかった。さらに、南宋と日本は実質的に交易を通じて実質的な友好国状態であり、元は共通の敵という認識であった。弘安の役後も元南宋出身の捕虜だけ助命している。

・モンゴル侵攻に抵抗していた三別抄(高麗軍)を見捨てた鎌倉幕府は人でなし
→幕府に支援を求めてきたときは残党が珍島に逃げ込んでいるだけの落ち武者状態、しかも「全羅道を頂ければ忠誠を誓います」など本国を裏切っての裏交渉をモンゴルとしていた屑

・武士達は1人ずつ名乗りを上げて一騎打ちを挑み蒙古軍に一方的に射掛けられてボロクソにやられた
→双方の資料にそのような記述は一切ない。むしろ初回の文永の役ですら百余騎の集団で弓を乱射しながら騎馬突撃をかけている武士の絵巻が残っている(しかも参戦者の竹崎季長が奉納した『蒙古襲来絵詞』に描写されている)

→元側の記録でも「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、 珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を 以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」とある。

→これは「弓と刀(日本刀、薙刀)と鎧は装備しているけど、戈(かのほこ:十文字槍の片刃バージョンのような武器)や矛(ほこ:槍を平刃にしたような武器)などの長柄突刺武器類は装備していないよ。この騎兵は集団で攻めてくるよ。彼らの鎧はしばしば黄金で飾り立てられており、穴の空いた珠(数珠?)を首から下げている連中が非常に多いよ。刀は極めて犀(鋭く尖って)であり、持ち手は穴の空いた物(刀の柄)に突き刺しているよ。弓は木製で威力抜群だけど射程はイマイチだよ、武士は死ぬことを恐れぬ勇猛なキ○ガイ集団だよ。
と訳せます。

gk5

※絵巻では描ききれなかったためか八騎だが、左上に百余騎と書かれている、なお、この集団は肥前国白石の御家人、白石通泰率いる一隊。なお、全体図は以下の通り。

Mōko_Shūrai_Ekotoba4

・幕府軍は初日で壊滅状態になり太宰府まで撤退した
→太宰府手前の水城まで敵が迫ったという記録を信じるとなると、蒙古軍は20km近く戦いながら進軍し、その後20km引き返して船に戻ったことになる。大半が(漢人と女真族と高麗族などからなる)歩兵の元軍がこれだけの距離を戦闘しながら移動したとは思えず、現実とは相違していたと思われる。なお、例え騎兵がいたとしても(蒙古襲来絵詞には騎乗した兵士が少数描かれている)、当時の博多近辺は川や松林や湿地混じりの複雑な地形のため、彼らの得意戦術「パルティアンショット(逃げながら後ろ向きに騎射)」は安定して使えず、どちらにしろ足を止めての殴り合いにならざるを得なかった物と思われる。

OttomanHorseArcher

→幕府の報告書を信じるとなると、博多が制圧されたとされているため、おおよそこのような進路で押し込められたことになる。

gk6

→一方竹崎季長の残した『蒙古襲来絵詞』によれば、蒙古軍はよかトピア通りを伝って赤坂(現在の福岡城跡付近)まで進出し、そこで鎌倉幕府軍と激突し敗走、その後樋井川を越えた鳥飼まで撤退した蒙古軍と再激突。白石通泰率いる百余騎が敵を撃破し、敵は潰走し、更に百道原・姪浜にて更なる追撃を受けて多大な損害を出して船に逃げ帰った(筑前国早良郡二軍ヲ出シ、姪ノ浜、百路原両処二於テ、一日二度ノ合戦二討勝テ、異賊ヲ斬ル事夥シ)。なお、少弐景資は百路原にて、敵将左副都元帥・劉復亨を弓で負傷させたとされる。このコースならおおよそ12kmのコースなので、現実的な移動距離と言える。

gk7

→元側や高麗側の資料と突き合わせても、初日に蒙古軍が劣勢に立たされたと読み取れる部分が多く見られる。忽敦(モンゴル人の元軍総司令官)が 「孫子の兵法に『小敵(元軍)の堅は、大敵(日本軍)の擒なり』とあって、 少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」 と判断して、撤退を決断したとの記述があり、初日の戦闘の状況が芳しくなかった事が伺える。その他「元軍の都元帥に次ぐ高級将校の管軍万戸・某が日本軍に投降」「左副都元帥・劉復亨が武士に矢を射掛けられて負傷」など、上級指揮官クラスの被害が相次いでいる点も注目すべきである。

・勝ったのは神風のおかげ
→蒙古軍が嵐で大被害を受けたのは事実だが、文永の役では撤退中の追い打ちイベント。弘安の役では幕府軍に上陸を阻止され夏場に数ヶ月も博多湾に居座っていて、台風の直撃を喰らわないほうがおかしいという前提条件であり、別に奇跡でも何でもない。神風関連の記述はボロクソにやられた武士の代わりに八幡神が降臨して元軍を蹴散らしたというトンデモカルト本とでも言うべき「八幡愚童訓」に依るところが大きい。幕府の正式な報告書の内容からも、当時本気で蒙古軍の呪殺祈願をやっていた神社仏閣やそのバックにあった朝廷の面子に配慮して「神風」という功績をねじ込ませたようにも見える。

・和弓はモンゴル弓に大きく劣る
→現代の和弓を使ったモンゴルの合成弓との比較では、ほぼ互角の射程との事。ただし文永の役の直後に射程延伸の技術改良がされている事から、文永の役時点での射程不足の問題があったことは間違えないと思われる。なお、高麗や金や遼の弓は「蒙古か矢、みしかしといへとも、矢のねに毒をぬりたれは(弱弓のため毒矢で補っている)」と日本側に評されている辺り、モンゴルの弓よりはかなり貧弱であった模様。ただし、モンゴル人自体が少数であった辺り、騎射兵同士や一部の合成弓装備の弓兵相手の戦いでのみ射程的に不利な面が問題視されたのではと推定される。ただし、合成弓は製法、材質の性質上、高温多湿条件に弱いので、実際どの程度実運用されていたかは疑問。なお、和弓の威力は十数メートル先にある3cmの檜板や鉄製フライパンを容易に貫通する程強力。『蒙古襲来絵詞』でも盾ごと貫かれて死んでいる蒙古兵が描かれている。

・蒙古軍の数が少なく、征服地の編入軍隊が主力だから本気ではなかった
→元の軍編成は基本的に征服地からの編入軍なので、元寇時も通常編成。

・蒙古軍の船、特に高麗製の船は粗悪品だったので簡単に沈んだ
→高麗製の船は頑丈との記述有り、実際帰還できた船は高麗製が多い。海底発掘調査で見つかった船体の残骸調査でも、造りはきちんとしていた事は確認済み。

・元軍の殆どが高麗人
→金や遼といった河北に陣取った異民族国家の残党が主力、次いで高麗という構成率。モンゴルは人口が少ないため、指揮官や一部の部隊がモンゴル出身の蒙古軍というのが実態。伝統的な彼らの戦法に則るなら、モンゴル騎射兵が突出して敵を挑発し、突っ込んでくれば攻撃しながら逃げ後方で包囲網を展開している降伏国軍の歩兵の網に誘い込み粉砕、逃げれば機動力を活かしてアウトレンジからじわじわ狩り殺す。鎌倉幕府軍は「重装騎射兵」という重装の騎馬武者が中距離から威力満点の弓で射撃戦をするという世界的に見ても珍しい兵科を進化させていたため、近代で言えば「軽戦車(ただし長射程)」VS「重戦車(ただし短射程)」のような様相を呈した。

・元軍の指揮官は無能
→蒙古軍の武将は南宋遠征や三別抄討伐で十分な戦績を持っているので、無能とは思えない。なお、高麗の武将はウ○コ。

gk1

という事で当時の日本人が大陸からどう思われていたのかを伺わせる資料がこれです。

『論倭』
「今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。 いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、 戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を燔して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。(中略)士気を喪い国体を弱めるのは、これより 大きなことはない。しかし、その地を取っても国に益することはなく、またその人を掠しても兵を強めることはない」

→白村江の時代と違って奴ら滅茶苦茶強いぞ、貿易商も重武装をしており、交渉が決裂すると城を襲撃し焼き払い、近隣を略奪する極めてヤバい連中だ。捕虜にして決して味方にならないし、日本本土を侵略して占拠しても何の国益にもならないから関わるな。

『心史』
「倭人は狠、死を懼れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。
勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。
倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険に して入りがたく、戦守の計を為すべし」

→男は死ぬまで抵抗する狼のような超凶暴戦闘民族で、女も気性が激しく強姦しようとするとひどい目に遭うからヤメロって・・・日本人はスパルタ人みたいな扱いだったのか・・・ :-)

gk3

なお、この有名な一枚ですが、左側の絵を見ると、

gk2

ケツに矢刺さって潰走してるがな  :-)

盾を思いっきり貫かれて死んでいる奴もいますし、破壊力と防御力の高い武士に突撃されて騎射でメタクソにやらられているようにしか見えません。飛んでいる矢も右手の武士側から飛んできているものが殆どです。

さらに、応戦している3名(上図右端の2名とさらに上図の左端1名)は明らかにタッチや顔料の色が異なります。これは後で描き足されたのでは?とも言われています。

なお、この3名を簡単に除去して、欠けている部分を合成してみるとこんな感じになります。

つまり、この絵は先駆け(威力偵察)をした竹崎季長が集中射撃を食らって怪我するも、援軍の白石通泰以下百騎が密集隊形で矢を乱射しながら敵陣に突撃し、蒙古軍を追い散らしたぞ、という絵と解釈できます。なお、竹崎季長は負傷するも無事生還していますので、鎧の防御力が十分であったことが伺えます。

gk10

ちなみに、空中で炸裂しているように見えるの(実際は地面に転がっていたと思われる)は「てつはう」という現代の手榴弾のような物。主に「退却時」に導火線に火をつけて放り投げて逃げて、爆音と煙と破片で時間稼ぎするための兵器。なお、あまり役に立たなかった模様。

「元史」では、日本軍総勢10万の大軍という事になっていますが、総大将・少弐景資ですら手勢 500余騎、他の有力御家人も100~200騎なので、精々数千騎。補助兵が一騎に5人ついているとしても2万人は行かないと思います。

「元史」「高麗史」でも「敵が多すぎるから退却した」と言い張っていますが、まー「負けた事に対する言い訳(しないとクビライ・カーンに処刑されるし)」ですね。

なお、二回目の弘安の役では、人数を更に大盛り(3万人前後→14万人以上)にして攻め寄せてきますが、蒙古軍は上陸すら満足にできない状況に陥ります。

その原因はコレ。

Takezaki_suenaga_ekotoba_bourui

弓の改良と石築地(元寇防塁)と逆茂木と乱杭といった防御設備を海岸線に完備させていたため

アンゴルモア03

逆茂木を突破するために足を止めたところを、上から射程能力を改良した和弓で一方的に射殺され、博多や太宰府に近寄ることすらできず船に缶詰状態→疫病発生→台風→10万の兵士を鷹島に捨てて指揮官逃亡→残兵は幕府軍に刈り取られて戦死or処刑or奴隷ということで二回目の弘安の役は日本側の圧勝で終わります。

Mōko_Shūrai_Ekotoba_e20(2)

なお、個人的に一番面白かったのは双方の無礼親書バトル。

-------

【クビライ・カーンからのラブレター】

天の慈しみを受けて最高の位についた、大蒙古国の皇帝が、書を、日本の国王に送る。
朕思うに、昔から小国の王は国境が接する国とは修好につとめるものである。
ましてや、朕の先祖は、天の命によって世界の所有者となっている。
遠方の異国でも朕の威力を畏れ徳を慕うものは数え切れないほどである。
朕が即位したばかりのころ、高麗(朝鮮半島)の民が戦乱に疲れていたので戦争をやめて講和し、老人と子供を故郷に帰らせた。
高麗は感謝して朝貢に来た。
朕と高麗とは、君と臣の関係だが、喜びあうことは父子のような間柄である。
おまえやおまえの重臣、その家臣たちも、この事は知っているであろう。
高麗は朕の東方の属国である。
日本は高麗に接した国で、建国以来しばしば中国に朝貢に来た。
ところが、朕の代になってからは、ただの一度も来ていない。
おそらくは、おまえの国は世界の情勢を知らないのであろう。
したがって使いを派遣し、国書を持たせて、朕の意思を知らせる。
いまから親交を結ぼうではないか。
聖人は世界を一家と考える。
親交を結ばないのは、一家とは言えないことである。
朕も軍事力を使いたくはない。
よく考えなさい。
それでは・・・。
至元三年八月日

(追記:もう少し細かく訳してみました)

【太政官(朝廷)返牒草案】

事情を案ずるに、今に至るまで、蒙古なんて国は聞いたこともない
貴国とはかつて通交のことがないので、わが方においては何等好悪の情をもっていないのに、凶器を用いようとしているようで、疑念がすこぶる深い、聖人・釈氏の教えでは、生を尊び命を奪うことを悪としているのに、帝徳仁義の境と誇っておりながら、還って庶民を殺傷しようとしている。

およそ天照皇太神(天照大神)の天統を耀かしてより、今日の日本今皇帝(亀山天皇)の日嗣を受けるに至るまで周代よりの中華王朝(左廟右社)の配下に入ったことはない。その権威は甚だしく明らかであり、百王を従え周辺の野蛮国に手出しをさせた事はない。ゆえに天皇の国土を昔から神国と号すのである。知をもって競えるものでなく、力をもって争うことも出来ない、唯一無二の存在である。よく考えよ。
------

上から目線で説教してくるクビライ・カーンと、マイルドに凄い喧嘩を売っている朝廷、どちらも相当なアレですね。

 

いやー最新の研究に基づいた元寇の役の再解釈は本当面白かったです。 :mrgreen:

「アンゴルモア 元寇合戦記」を読んで元寇の役の実態を調べた結果” への7件のコメント

  1. 面白かったです。
    小学校の頃(今から30年ほど前)に教わった教科書の内容とは相当異なっていますね。
    まあ、当時のH県の教科書や教育は日本下げが甚だしかったのですが…。

    • これほど学説が変わっている歴史上のイベントも珍しいですからね。戦中に軍が神風を神格化しまくった反動の反動がきているという状況なのでしょう。

  2. 面白いです。神風のおかげで勝てたという言説は報奨を払いたくない(払えない)幕府が流布した説派です。

    • まーそれもあるでしょうね。当時は武士が増えすぎて(庶子がゴロゴロ生まれてハムスターの繁殖状態)土地の配分が飽和状態であった時代だったので、むしろ大量に戦死してくれたほうが良かったのでしょう。

      結果あまり死なずに終わったので更に事態は悪化と・・・

  3. 非常に興味深く、早速「アンゴルモア」1巻を購入させていただきました。

    ひとつ「あまり真に受けない方がいいのかな?」と思うことがあります。
    いつの時代でも軍人は「敵はこんなに強かった!」
    1)「だから負けたけど仕方ないだろ、俺たちの落ち度じゃない」
    2)「それでも買った俺たちスゴいだろ、もっと恩賞よこせ」
    と言いたがるもので、結果「敵はこんなに強かった」と記録したがる習性があるのです、釈迦に説法でしょうけど。

    「敵はこんなに弱かった」と記録する軍は滅多にありません。
    そう考えると蒙古軍の日本軍評価もそのまんま受け取ることはできないかな?と思っています。

    まあ従前の「神風で救われただけで日本軍は能無し集団」という歴史の書きようもアホくさ、とは思いますが(笑)

    • 逆に日本側の記述としては「対馬、壱岐はメタクソにやられた」というのが残っていまして、元側からは特段細かい資料が残っていないというパターンも有ります。
      初回の博多攻防戦(文永の役)では、各陣営の資料を並べて共通した情報のみをAND条件で揃えると
      「序盤元側優勢、その後日本側優勢で海岸まで押し込まれて元側の副司令官負傷、元軍船に撤退、翌日船団ごと本土に撤退」という事になり、何ともシンプルというか、味気ない内容となります。
      アンゴルモアもその点、作者はかなり苦悩した形跡がありますね。菊池槍とか古代の投石器とか、かなり時代を越えた兵器や戦術をかき集めて盛り上げようとしているのかな、というのがあのマンガを読んだ上で資料を検証した結論でした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)